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仏なり〈後の円教の観心の仏〉」。また云わく「権教の三身はいまだ無常を免れず〈前の三教の修行の仏〉、実教の三身は俱体俱用なり〈後の円教の観心の仏〉」。この釈を能く能く意得べきなり。権教は難行苦行して、たまたま仏に成りぬと思えば、夢の中の権の仏なれば、本覚の寤の時には実の仏無きなり。極果の仏無ければ、「教のみ有って人無し」なり。いわんや教法実ならんや。これを取って修行せんは、聖教に迷えるなり。この前の三教には仏に成らざる証拠を説き置き給いて、末代の衆生に慧解を開かしむるなり。
九界の衆生は、一念の無明の眠りの中において、生死の夢に溺れて本覚の寤を忘れ、夢の是非に執して冥きより冥きに入る。この故に、如来は我らが生死の夢の中に入って、顚倒の衆生に同じて夢の中の語をもって夢の中の衆生を誘い、夢の中の善悪の差別の事を説いて漸々に誘引し給うに、夢の中の善悪の事重畳して様々に無量無辺なれば、まず善事について上・中・下を立つ。三乗の法これなり。三三九品なり。かくのごとく説き已わって後に、また上上品の根本善を立て、上・中・下の三三九品の善と云う。皆ことごとく九界生死の夢の中の善悪・是非なり。今これをば総じて邪見外道となす〈捜要記の意〉。
この上に、また、「上上品の善心は本覚の寤の理なれば、これを善の本と云う」と説き聞かせ給いし時に、夢の中の善悪の悟りの力をもっての故に、寤の本心の実相の理を始めて聞知せらるることなり。この時に仏説いて言わく「夢と寤との二つは虚事と実事との二つの事なれども、心法はただ一つなり。眠りの縁に値いぬれば夢なり。眠り去りぬれば寤の心なり。心法はただ一つなり」。開会せら
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(049)三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄) | 弘安2年(’79)10月 | 58歳 |