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賤しみ、犬・野干よりもわろきようを人に云いうとめ、法華経をば我一人心得たりと思う者なり。三には阿練若の僧なり。この僧は極めて貴き相を形に顕し、三衣一鉢を帯して山林の閑かなる所に籠もり居て、在世の羅漢のごとく諸人に貴まれ、仏のごとく万人に仰がれて、法華経を説のごとくに読み持ち奉らん僧を見ては、憎み嫉んで云わく「大愚癡の者、大邪見の者なり。すべて慈悲なき者、外道の法を説く」なんど云わん。上一人より仰いで信を取らせ給わば、その已下万人も仏のごとくに供養をなすべし。法華経を説のごとくよみ持たん人は、必ずこの三類の敵人に怨まるべきなりと仏説き給えり。
問うて云わく、仏の名号を持つように法華経の名号を取り分けて持つべき証拠ありや、いかん。
答えて云わく、経に云わく「仏は諸の羅刹女に告げたまわく『善きかな、善きかな。汝等はただ能く法華の名を受持せん者を擁護せんすら、福は量るべからず』と」云々。この文の意は、十羅刹の法華の名を持つ人を護らんと誓言を立て給うを、大覚世尊讃めて言わく「善きかな、善きかな。汝等、南無妙法蓮華経と受け持たん人を守らん功徳、いくら程とも計りがたく、めでたき功徳なり、神妙なり」と仰せられたる文なり。これ我ら衆生の行住坐臥に南無妙法蓮華経と唱うべしという文なり。
およそ妙法蓮華経とは、我ら衆生の仏性と、梵王・帝釈等の仏性と、舎利弗・目連等の仏性と、文殊・弥勒等の仏性と、三世の諸仏の解りの妙法と一体不二なる理を、妙法蓮華経と名づけたるなり。故に、一度妙法蓮華経と唱うれば、一切の仏、一切の法、一切の菩薩、一切の声聞、一切の梵王・帝釈・閻魔法王・日月・衆星・天神・地神、乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天、一切衆生の心中の仏性をた
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(048)法華初心成仏抄 | 建治3年(’77) | 56歳 |