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く実に入るを指す。故に易知と云う」文。この文の心は、法華より已前の経にては機つたなくして解り難く入り難し、今の経に来っては機賢く成って解り易く入り易しと釈し給えり、その上、「難解難入」と説かれたる経が機に叶わずば、まず念仏を捨てさせ給うべきなり、その故は、双観経に「難きが中の難きなり。この難きに過ぎたるは無し」と説き、阿弥陀経には「難信の法」と云えり。文の心は、この経を受け持たんことは難きが中の難きなり、これに過ぎたる難きはなし、難信の法なりと見えたり。
問うて云わく、経文に「四十余年にはいまだ真実を顕さず」と云い、また「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐるとも、終に無上菩提を成ずることを得ず」と云えり。この文は、いか体のことにて候や。
答えて云わく、この文の心は、釈迦仏一期五十年の説法の中に、始めの華厳経にも真実をとかず、中の方等・般若にも真実をとかず。この故に、禅宗・念仏・戒等を行ずる人は、無量無辺劫をば過ぐとも仏にならじという文なり。
仏四十二年の歳月を経て後、法華経を説き給う文には「世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説きたもうべし」と仰せられしかば、舎利弗等の千二百の羅漢、万二千の声聞、弥勒等の八万人の菩薩、梵王・帝釈等の万億の天人、阿闍世王等の無量無辺の国王、仏の御言を領解する文には、「我らは昔より来、しばしば世尊の説を聞きたてまつるに、いまだかつてかくのごとき深妙の上法を聞かず」と云って、我ら仏に離れ奉らずして四十二年、そこばくの説法を聴聞しつれども、いまだかくのご
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(048)法華初心成仏抄 | 建治3年(’77) | 56歳 |