70ページ
下し、「理は深く解は微かなり」と立て、「いまだ一人も得る者有らず」「千の中に一りも無し」等とすかししものに、無量生が間、恒河沙の度すかされて権経に堕ちぬ。権経より小乗経に堕ちぬ。外道・外典に堕ちぬ。結句は悪道に堕ちけりと、深くこれをしれり。
日本国にこれをしれる者、ただ日蓮一人なり。
これを一言も申し出だすならば、父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来るべし、いわずば慈悲なきににたりと思惟するに、法華経・涅槃経等にこの二辺を合わせ見るに、いわずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕つべし、いうならば三障四魔必ず競い起こるべしとしんぬ。二辺の中にはいうべし。王難等出来の時は退転すべくば一度に思い止まるべしと、しばらくやすらいしほどに、宝塔品の六難九易これなり。我ら程の小力の者、須弥山はなぐとも、我ら程の無通の者、乾ける草を負って劫火にはやけずとも、我ら程の無智の者、恒沙の経々をばよみおぼうとも、法華経は一句一偈も末代に持ちがたしととかるるは、これなるべし。今度強盛の菩提心をおこして退転せじと願じぬ。
既に二十余年が間この法門を申すに、日々・月々・年々に難かさなる。少々の難はかずしらず、大事の難四度なり。二度はしばらくおく。王難すでに二度におよぶ。今度はすでに我が身命に及ぶ。その上、弟子といい、檀那といい、わずかの聴聞の俗人なんど来って重科に行わる。謀反なんどの者のごとし。
法華経の第四に云わく「しかもこの経は、如来の現に在すすらなお怨嫉多し。いわんや滅度して後をや」等云々。第二に云わく「経を読誦し書持することあらん者を見て、軽賤憎嫉して、結恨を懐か
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(005)開目抄 | 文永9年(’72)2月 | 51歳 | 門下一同 |