って経力を顕す」文。文の心は、謬って法華経を説かん人の、この経は利智精進・上根上智の人のためといわんことを、仏おそれて、下根下智・末代の無智の者のわずかに浅き随喜の功徳を四十余年の諸経の大人・上聖の功徳に勝れたることを顕さんとして、「五十展転」の随喜は説かれたり。故に、天台の釈には、外道・小乗・権大乗までたくらべ来って、法華経の最下の功徳が勝れたる由を釈せり。
ゆえに、阿竭多仙人は十二年が間恒河の水を耳に留め、耆㝹仙人は一日の中に大海の水をすいほす。かくのごとき得通の仙人は、小乗の阿含経の三賢の浅位の一通もなき凡夫には、百千万倍劣れり。三明六通を得たりし小乗の舎利弗・目連等は、華厳・方等・般若等の諸大乗経の未断三惑の一通もなき「一偈一句」の凡夫には、百千万倍劣れり。華厳・方等・般若経を習い極めたる等覚の大菩薩は、法華経をわずかに結縁をなせる未断三惑・無悪不造の末代の凡夫には百千万倍劣れる由、釈の文顕然なり。
しかるを、当世の念仏宗等の人、我が身の権教の機にて実経を信ぜざる者は、方等・般若の時の二乗のごとく自身をはじしめてあるべきところに、あえてその義なし。あまつさえ、世間の道俗の中に、わずかに観音品・自我偈なんどを読み、たまたま父母孝養なんどのために一日経等を書くことあれば、いいさまたげて云わく「善導和尚は、念仏に法華経をまじうるを雑行と申し、百の時は希に一・二を得、千の時は希に三・五を得ん、乃至、千中無一と仰せられたり。いかにいわんや、智慧第一の法然上人は、法華経等を行ずる者をば、祖父の履あるいは群賊等にたとえられたり」なんどいいうとめ侍るは、かくのごとく申す師も弟子も阿鼻の焰をや招かんずらんと申す。
問うて云わく、いかなるすがた、ならびに語をもってか、法華経を世間にいいうとむる者には侍る
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(001)唱法華題目抄 | 文応元年(’60)5月28日 | 39歳 |