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なる道はなきが故なり。
またある人不審して云わく「機に叶わざる法華経を強いて説いて謗ぜさせて悪道に人を堕とさんよりは、機に叶える念仏を説いて発心せしむべし。利益もなく謗ぜさせて、返って地獄に堕とさんは、法華経の行者にもあらず、邪見の人にてこそあるらめ」と不審せば、云うべし。経文には「いか体にもあれ、末法には強いて法華経を説くべし」と仏の説き給えるをば、さていかが心うべく候や。釈迦仏・不軽菩薩・天台・妙楽・伝教等は、さて邪見の人、外道にておわしまし候べきか。
また悪道にも堕ちず、三界の生を離れたる二乗という者をば、仏ののたまわく「たとい犬・野干の心をば発すとも、二乗の心をもつべからず。五逆十悪を作って地獄には堕つとも、二乗の心をばもつべからず」なんどと禁められしぞかし。悪道におちざるほどの利益はいかでか有るべきなれども、それをば仏の御本意とも思しめさず。地獄には堕つるとも、仏になる法華経を耳にふれぬれば、これを種として必ず仏になるなり。されば、天台・妙楽も、この心をもって、強いて法華経を説くべしとは釈し給えり。譬えば、人の地によって倒れたる者の、返って地をおさえて起つがごとし。地獄には堕つれども、疾く浮かんで仏になるなり。
当世の人、何となくとも法華経に背く失によって地獄に堕ちんこと疑いなき故に、とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし。謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり。いかにとしても、仏の種は法華経より外になきなり。権教をもって仏になる由だにあらば、なにしにか仏は強いて法華経を説いて、「謗ずるも信ずるも利益あるべし」と説き、「我は身命を愛せ
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(048)法華初心成仏抄 | 建治3年(’77) | 56歳 |