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成仏の道こそ未顕真実なれ。世間の事法は仏の御言一分も違わず。これをもってこれを思うに、当時の「闘諍堅固、白法隠没」の金言も違うことあらじ。もししからば、末法にはいずれの法も得益あるべからず、いずれの仏菩薩も利生あるべからずと見えたり、いかん。さて、もだしていずれの仏菩薩にもつかえ奉らず、いずれの法をも行ぜず、憑む方なくして候べきか。後世をばいかんが思い定め候べきや。
答えて云わく、末法当時は、久遠実成の釈迦仏・上行菩薩・無辺行菩薩等の弘めさせ給うべき法華経二十八品の肝心たる南無妙法蓮華経の七字ばかりこの国に弘まって、利生得益もあり、上行菩薩の御利生盛んなるべき時なり。その故は、経文明白なり。道心堅固にして志あらん人は、委しくこれを尋ね聞くべきなり。
浄土宗の人々、「末法万年に余経ことごとく滅し、弥陀の一教のみあり」と云い、また「当今末法はこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみ有って通入すべき路なり」と云って、虚言して「大集経に云わく」と引けども、彼の経にすべてこの文なし。その上、あるべき様もなし。仏の在世の御言に当今末法五濁の悪世にはただ浄土の一門のみ入るべき道なりとは説き給うべからざる道理顕然なり。本経には「当来の世、経道滅尽せん。特りこの経のみを留めて、止住せんこと百歳ならん」と説けり。末法一万年の百歳とは全く見えず。しかるに、平等覚経、大阿弥陀経を見るに、仏の滅後一千年の後の百歳とこそ意えられたれ。しかるに、善導が惑える釈をばもっとも道理と人皆思えり。これはこれ僻案の者なり。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(048)法華初心成仏抄 | 建治3年(’77) | 56歳 |