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しと云わんや。それになお「鈍根の菩薩は二乗とつれて得益あれども、利根の菩薩は爾前の経にて得益す」と云わば、「利根・鈍根に、等しく法雨を雨らす」と説き、「一切の菩薩の阿耨多羅三藐三菩提は、皆この経に属せり」と説くはいかに。
これらの文の心は、利根にてもあれ鈍根にてもあれ、持戒にてもあれ破戒にてもあれ、貴くもあれ賤しくもあれ、一切の菩薩・凡夫・二乗は法華経にて成仏得道なるべしという文なるをや。また、法華得益の菩薩は皆鈍根なりと云わば、普賢・文殊・弥勒・薬王等の八万の菩薩をば鈍根なりと云うべきか。その外に爾前の経にて得道する利根の菩薩というは、いかようなる菩薩ぞや。
そもそも、爾前に菩薩の得道と云うは、法華経のごとき得道にて候か。それならば法華経の得道にて爾前の得分にあらず。また法華経より外の得道ならば、已今当の中にはいずれぞや。いかさまにも、法華経ならぬ得道は当分の得道にて真実の得道にあらず。故に、無量義経には「この故に衆生は得道差別す」と云い、また「終に無上菩提を成ずることを得ず」と云えり。文の心は、爾前の経々には得道の差別を説くといえども、終に無上菩提の法華経の得道はなしとこそ仏は説き給いて候え。
問うて云わく、当時は釈尊入滅の後、今に二千二百三十余年なり。一切経の中に、いずれの経か時に相応して弘まり、利生も有るべきや。大集経の五箇の五百歳の中の第五の五百歳に当時はあたれり。その第五の五百歳をば、「闘諍堅固、白法隠没」と云って、人の心たけく腹あしく貪欲・瞋恚強盛なれば、軍・合戦のみ盛んにして、仏法の中に先々弘まりしところの真言・禅宗・念仏・持戒等の白法は隠没すべしと仏説き給えり。第一の五百歳、第二の五百歳、第三の五百歳、第四の五百歳を見るに、
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(048)法華初心成仏抄 | 建治3年(’77) | 56歳 |