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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

禅宗には余の一切経をば教内と簡って、「教外に別伝し、文字を立てず」と立てて、「壁に向かって悟れば、禅宗独り勝れたり」と云う。浄土宗には正・雑二行を立てて、法華経等の一切経をば、捨閉閣抛し雑行と簡い、浄土の三部経を、機に叶いめでたき正行なりと云う。各々我慢を立て、互いに偏執を作す。いずれか釈迦仏の御本意なるや。
 答えて云わく、宗々各別に「我が経こそすぐれたれ。余経は劣れり」と云って、「我が宗吉し」と云うことは、ただこれ人師の言にて仏説にあらず。ただし、法華経ばかりこそ、仏、五味の譬えを説いて五時の教えに当てて、この経の勝れたる由を説き、あるいはまた「已今当の三説の中に、仏になる道は法華経に及ぶ経なし」と云うことは、正しき仏の金言なり。しかるに、「我が経は法華経に勝れたり。我が宗は法華宗に勝れたり」と云わん人は、下﨟が上﨟を凡下と下し、相伝の従者が主に敵対して我が下人なりと云わんがごとし。何ぞ大罪に行われざらんや。法華経より余経を下すことは、人師の言にあらず、経文分明なり。譬えば、国王の万人に勝れたりと名乗り、侍の凡下を下﨟と云わんに、何の禍かあるべきや。この経は、これ仏の御本意なり。天台・妙楽の正意なり。
 問うて云わく、釈迦一期の説法は皆衆生のためなり。衆生の根性万差なれば、説法も種々なり。いずれも皆得道なるを本意とす。しかれば、我が有縁の経は人のためには無縁なり。人の有縁の経は我がためには無縁なり。故に、余経の念仏によりて得道なるべき者のためには、観経等はめでたし、法華経等は無用なり。法華によりて成仏得道なるべき者のためには、余経は無用なり、法華経はめでたし。「四十余年にはいまだ真実を顕さず」と説くも、「種々の道を示すといえども、それ実には仏乗の