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とし。その外、小菴には釈尊を本尊とし、一切経を安置したりしその室を刎ねこぼちて、仏像・経巻を諸人にふまするのみならず、糞泥にふみ入れ、日蓮が懐中に法華経を入れまいらせて候いしをとりいだして、頭をさんざんに打ちさいなむ。このこと、いかん。宿意もなし、当座の科もなし、ただ法華経を弘通するばかりの大科なり。
日蓮、天に向かい、声あげて申さく、法華経の序品を拝見し奉れば、梵釈と日月と四天と、竜王と阿修羅と、二界八番の衆と無量の国土の諸神と集会し給いたりし時、已今当に第一の説を聞きし時、我とも雪山童子のごとく身を供養し、薬王菩薩のごとく臂をもやかんとおもいしに、教主釈尊、多宝・十方の諸仏の御前にして、「今、仏前において、自ら誓言を説け」と諫暁し給いしかば、幸いに順風を得て、「世尊の勅のごとく、当につぶさに奉行すべし」と、二処三会の衆、一同に大音声を放って誓い給いしは、いかんが有るべき。ただ仏前にては、かくのごとく申して、多宝・十方の諸仏は本土にかえり給う、釈尊は御入滅ならせ給いてほど久しくなりぬれば、末代辺国に法華経の行者有りとも、梵釈・日月等、御誓いをうちわすれて守護し給うことなくば、日蓮がためには一旦のなげきなり。無始より已来、鷹の前のきじ、蛇の前のかえる、猫の前のねずみ、犬の前のさるとありし時もありき。ゆめの代なれば、仏菩薩・諸天にすかされまいらせたりける者にてこそ候わめ。
なによりもなげかしきことは、梵と帝と日月と四天等の、南無妙法蓮華経の法華経の行者の大難に値うをすてさせ給いて、現身に天の果報も尽きて、花の大風に散るがごとく、雨の空より下るごとく、「その人は命終して、阿鼻獄に入らん」と、無間大城に堕ち給わんことこそあわれにはおぼえ候え。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(047)神国王御書 | 建治元年(’75)* |