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第三十三代崇峻天皇の御宇より仏法我が朝に崇められて、第三十四代推古天皇の御宇に盛んにひろまり給いき。この時、三論宗と成実宗と申す宗、始めて渡って候いき。この三論宗は、月氏にても、漢土にても、日本にても、大乗宗の始めなり。故に、宗の母とも、宗の父とも申す。人王三十六代に皇極天皇の御宇に禅宗わたる。人王四十代天武の御宇に法相宗わたる。人王四十四代元正天皇の御宇に大日経わたる。人王四十五代に聖武天皇の御宇に華厳宗を弘通せさせ給う。人王四十六代孝謙天皇の御宇に律宗と法華宗わたる。しかりといえども、ただ律宗ばかりを弘めて、天台法華宗は弘通なし。
人王第五十代に最澄と申す聖人あり。法華宗を我と見出だして、俱舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗等の六宗をせめおとし給うのみならず、漢土に大日宗と申す宗有りとしろしめせり。同じき御宇に漢土にわたりて四宗をならいわたし給う。いわゆる、法華宗・真言宗・禅宗・大乗の律宗なり。しかりといえども、法華宗と律宗とをば弘通ありて、禅宗をば弘め給わず、真言宗をば宗の字をけずり、ただ七大寺等の諸僧に灌頂を許し給う。しかれども、世間の人々はいかなる故ということをしらず。当時の人々の云わく「この人は、漢土にて法華宗をば委細にならいて、真言宗をばくわしく知ろしめさざりけるか」とすいし申すなり。
同じき御宇に、空海と申す人、漢土にわたりて真言宗をならう。しかりといえども、いまだこの御代には帰朝なし。人王第五十一代に平城天皇の御宇に帰朝あり。五十二代嵯峨の天皇の御宇に弘仁十四年癸卯正月十九日に、真言宗の住処・東寺を給わって、護国教王院とごうす。伝教大師御入滅の一年の後なり。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(047)神国王御書 | 建治元年(’75)* |