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者等、近くは自宗に迷い、遠くは法華経の寿量品をしらず、水中の月に実月の想いをなし、あるいは入って取らんとおもい、あるいは縄をつけてつなぎとどめんとす。天台云わく「天月を識らず、ただ池月のみを観ず」等云々。
日蓮案じて云わく、二乗作仏すらなお爾前づよにおぼゆ。久遠実成はまたにるべくもなき爾前づりなり。その故は、爾前・法華相対するに、なお爾前こわき上、爾前のみならず迹門十四品も一向に爾前に同ず。本門十四品も涌出・寿量の二品を除いては皆始成を存せり。双林最後の大般涅槃経四十巻、その外の法華前後の諸大乗経に一字一句もなく法身の無始無終はとけども応身・報身の顕本はとかれず。いかんが、広博の爾前・本迹・涅槃等の諸大乗経をばすてて、ただ涌出・寿量の二品には付くべき。
されば、法相宗と申す宗は、西天に仏の滅後九百年に無著菩薩と申す大論師有しき。夜は都率の内院にのぼり、弥勒菩薩に対面して一代聖教の不審をひらき、昼は阿輸舎国にして法相の法門を弘め給う。彼の御弟子は世親・護法・難陀・戒賢等の大論師なり。戒日大王頭をかたぶけ、五天幢を倒してこれに帰依す。尸那国の玄奘三蔵、月氏にいたりて十七年、印度百三十余の国々を見ききて諸宗をばふりすて、この宗を漢土にわたして太宗皇帝と申す賢王にさずけ給い、昉・尚・光・基を弟子として大慈恩寺ならびに三百六十余箇国に弘め給う。日本国には人王三十七代孝徳天皇の御宇に道慈・道昭等ならいわたして山階寺にあがめ給えり。三国第一の宗なるべし。
この宗云わく「始め華厳経より終わり法華・涅槃経にいたるまで、無性有情と決定性の二乗は永く仏になるべからず。仏語に二言なし。一度永不成仏と定め給いぬる上は、日月は地に落ち給うとも、
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(005)開目抄 | 文永9年(’72)2月 | 51歳 | 門下一同 |