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をば蒙り給いけるやらん。不審極まり無し。善無畏三蔵、真言の力をもって閻魔の責めを脱れずんば、天竺・震旦・日本等の諸国の真言師、地獄の苦を脱るべきか」。
委細にこのことを勘えたるに、この三蔵は世間の軽罪は身に御せず。諸宗ならびに真言の力にて滅しぬらん。この責めは別の故無し、法華経誹謗の罪なり。
大日経の義釈を見るに、「この経はこれ法王の秘宝なり。みだりに卑賤の人に示さず。釈迦世に出でて四十余年に、舎利弗の慇懃の三請に因って、方にために略して妙法蓮華の義を説くがごとし。今この本地の身、またこれ妙法蓮華の最深秘処なるが故に。寿量品に云わく『常に霊鷲山および余の諸の住処に在り、乃至、我が浄土は毀れざれども、衆は焼け尽くと見る』。即ちこの宗の瑜伽の意なるのみ。また、補処の菩薩の慇懃の三請に因って、方にためにこれを説く」等云々。
この釈の心は、大日経に本迹二門・開三顕一・開近顕遠の法門有り、法華経の本迹二門のごとし。この法門は法華経に同じけれども、この大日経に印と真言と相加わりて三密相応せり。法華経はただ意密ばかりにて、身・口の二密闕けたれば、法華経をば略説と云い、大日経をば広説と申すべきなりと書かれたり。この法門、第一の誤り、謗法の根本なり。この文に二つの誤り有り。
また、義釈に云わく「この経は横に一切の仏教を統ぶ」等云々。大日経は当分・随他意の経なり。誤って随自意・跨節の経と思えり。かたがた誤りたるを実義と思しめす故に、閻魔の責めをば蒙りたりしか。智者にて御座しませし故に、この謗法を悔い還して法華経に翻りし故に、この責めを免るるか。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(046)善無畏抄 | 建治元年(’75)* |