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は仏眼・大日にあらず。例せば、仏も華厳経は円仏にはあらず。名にはよらず。
三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつれば、必ず純円の仏なり云々。故に、普賢経に法華経の仏を説いて云わく「仏の三種の身は、方等より生ず」文。この「方等」は方等部の方等にあらず。法華を方等というなり。また云わく「この大乗経は、これ諸仏の眼なり。諸仏はこれに因って五眼を具することを得たまえり」等云々。
法華経の文字は、仏の梵音声の不可見無対色を可見有対色のかたちとあらわしぬれば、顕・形の二色となれるなり。滅せる梵音声かえって形をあらわして、文字と成って衆生を利益するなり。人の声を出だすに二つあり。一には、自身は存ぜざれども、人をたぶらかさんがために声をいだす。これは随他意の声。自身の思いを声にあらわすことあり。されば、意が声とあらわる。意は心法、声は色法。心より色をあらわす。また声を聞いて心を知る。色法が心法を顕すなり。色心不二なるがゆえに而二とあらわれて、仏の御意あらわれて法華の文字となれり。文字変じてまた仏の御意となる。されば、法華経をよませ給わん人は、文字と思しめすことなかれ。すなわち仏の御意なり。故に、天台釈して云わく「請を受けて説く時は、ただこれ教意を説くのみ。教意はこれ仏意なり。仏意は即ちこれ仏智なり。仏智至って深し。この故に三止四請す。かくのごとき艱難は、余経に比ぶるに、余経は則ち易し」文。この釈の中に「仏意」と申すは、色法をおさえて心法という釈なり。
法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体、生身の仏なり。草木成仏といえるはこれなり。故に、天台は「一色一香も中道にあらざることなし」と云々。妙楽これをう
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(045)木絵二像開眼之事 | 文永後期以降 |