662ページ
(045)
木絵二像開眼之事
文永後期以降
仏に三十二相有す。皆色法なり。最下の千輻輪より終わり無見頂相に至るまでの三十一相は、可見有対色なれば、書きつべし、作りつべし。梵音声の一相は、不可見無対色なれば、書くべからず、作るべからず。仏の滅後は木画の二像あり。これ三十一相にして梵音声かけたり。故に仏にあらず。また心法かけたり。生身の仏と木画の二像を対するに、天地雲泥なり。何ぞ、涅槃の後分には「生身の仏と滅後の木画の二像と功徳斉等なり」というや。また大瓔珞経には「木画の二像は生身の仏にはおとれり」ととけり。
木画の二像の仏の前に経を置けば、三十二相具足するなり。ただし、心なければ、三十二相を具すれども必ずしも仏にあらず。人天も三十二相あるがゆえに。木絵の三十一相の前に五戒経を置けば、この仏は輪王とひとし。十善論というを置けば、帝釈とひとし。出欲論というを置けば、梵王とひとし。全く仏にあらず。また、木絵二像の前に阿含経を置けば、声聞とひとし。方等・般若の一時一会の共般若を置けば、縁覚とひとし。華厳・方等・般若の別・円を置けば、菩薩とひとし。全く仏にあらず。大日経・金剛頂経・蘇悉地経等の仏眼、大日の印・真言は、名は仏眼・大日といえども、その義
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(045)木絵二像開眼之事 | 文永後期以降 |