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の中に円融有りといえども、全く二妙無し」。私志記に云わく「昔の八の中の円は、今の相待の円と同じ」と云えり。これは同なり。記の四に云わく「法界をもってこれを論ずれば、華厳にあらざるなし。仏慧をもってこれを論ずれば、法華にあらざるなし」云々。また云わく「応に知るべし、華厳の尽未来際は即ちこれこの経の常在霊山なり」云々。これらの釈は爾前の円と法華の相待妙とを同ずる釈なり。
迹門の絶待開会は永く爾前の円と異なり。籤の十に云わく「この法華経は、開権顕実・開迹顕本す。この両意は永く余経に異なり」と云えり。記の四に云わく「もし仏慧をもって法華となさば、即ち」等云々。この釈は、仏慧を明かすは爾前・法華に亘り、開会はただ法華に限ると見えたり。これは勝なり。爾前の無得道なることは分明なり。その故は、二妙をもって一法を妙ならしむるなり。既に爾前の円には絶待の一妙を闕く。衆生も妙の仏と成るべからず。故に、籤の三に云わく「妙変じて麤となる」等の釈これなり。華厳の円変じて別と成るという意なり。
本門は、相待・絶待の二妙ともに爾前に分無し。また迹門にもこれ無し。爾前・迹門は異なれども、二乗は見思を断じ菩薩は無明を断ずと申すことは、一往これを許して再往はこれを許さず。本門寿量品の意は、爾前・迹門において一向に三乗ともに三惑を断ぜずと意得べきなり。
この道理を弁えざるのあいだ、天台の学者は、爾前・法華の一往同の釈を見て永異の釈を忘れ、結句、名は天台宗にてその義分は華厳宗に堕ちたり。華厳宗に堕つるが故に、方等・般若の円に堕ちぬ。結句は善導等の釈の見を出でず。結句、後には謗法の法然に同じて、「師子身中の虫の自ら師子を食
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(044)二乗作仏事 | 文永後期 |