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るところに随ってひとえに己が典を讃むるに同じからず。もし法華を弘むるも、ひとえに讃むることなお失なり。いわんやまた余をや」文。「何となれば、既に開権顕実と言えば、何ぞ一向に権を毀るべけんや」。
華厳経の「心、仏および衆生、この三つは差別無し」の文は、華厳の人師この文において一心・覚・不覚の三義を立つるは、源、起信論の名目を借りてこの文を釈するなり。南岳大師は妙法の二字を釈するに、この文を借りて三法妙の義を存せり。天台智者大師はこれを依用す。ここにおいて天台宗の人は華厳と法華と同等の義を存するか。また澄観は「心、仏および衆生」の文において一心・覚・不覚の義を存するのみにあらず、性悪の義を存して云わく、澄観の釈に「彼の宗にはこれを謂って実となす。この宗の立義、理として通ぜざることなし」等云々。これらの法門許すべきや不や。
答えて云わく、弘の一に云わく「もし今家の諸の円文の意無くんば、彼の経の偈の旨、理として実に消し難からん」。同じく五に云わく「今の文を解せずんば、いかんぞ『心は一切を造る。三つは差別無し』を消解せん」文。記の七に云わく「いるかせにしてすべていまだ性悪の名を聞かず」と云えり。これらの文のごとくんば、天台の意を得ずんば彼の経の偈の意知り難きか。また震旦の人師の中には天台の外には性悪の名目あらざりけるか。また法華経にあらずんば一念三千の法門談ずべからざるか。天台已後の華厳の末師ならびに真言宗の人、性悪をもって自宗の依経の詮となすは、天竺より伝わりたりけるか、祖師より伝わるか、また天台の名目を偸んで自宗の内証となすと云えるか。能く能くこれを験うべし。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(044)二乗作仏事 | 文永後期 |