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の後、彼らの経に向かって見る時は、一向に別、一向に円等と見えたる処あり。阿難結集の後のしわざなりけりと見給えるなり。
天台一宗の学者の中にこの道理を得ざるは、爾前の円と法華の円と始終同じき義と思うが故に、一処のみの円教の経を見て一巻二巻等に純円の義を存する故に、彼の経等において成仏・往生の義理を許す人々これ多きなり。華厳・方等・般若・観経等の本文において、阿難、円教の巻を書く日に、「即身成仏」云々、「即得往生」等とあるを見て、一生乃至順次生に往生・成仏を遂げんと思いたり。
阿難結集已前の仏口より出だすところの説教にて意を案ずれば、「即身成仏」「即得往生」の裏に歴劫修行・永不往生の心を含めり。句の三に云わく、摂論を引いて云わく「了義経は文に依って義を判ず」等という意なり。爾前の経を文のごとく判ぜば仏意に乖くべしということは、これなり。記の三に云わく「法華より已前は不了義なるが故に」と云えり。この心を釈せるなり。籤の十に云わく「ただこの法華のみ前教の意を説いて今経の意を顕す」。釈の意はこれなり。
そもそも、他師と天台との意の殊なる様はいかん。他師は、一々の経々に向かって彼の経々の意を得たりと謂えり。天台大師は、法華経に仏四十余年の経々を説き給える意をもって諸経を釈する故に、阿難尊者の書きしところの諸経の本文にたがいたるようなれども、仏意に相叶いたるなり。しばらく観経の疏のごとき、経説には見えざれども、一字において四教を釈す。本文は、一処は別教、一処は円教、一処は通教に似たり。釈の四教に亘るは、法華の意をもって仏意を知りたもうが故なり。阿難尊者の結集する経にては、一処は純別、一処は純円に書き、別・円を一字に含する義をば法華にて書
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(044)二乗作仏事 | 文永後期 |