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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

 答う。説かざるなり。「いまだかつて人に向かって、かくのごとき事を説かず」の釈に明らかなり。
 問う。華厳経の「三つは差別無し」の文は十界互具の正しき証なりや。
 答う。次下の経二十五に云わく、「如来の智慧の大薬王樹は、ただ二所のみを除く。生長することを得ざればなり。いわゆる、声聞と縁覚となり」等云々。二乗作仏を許さずということ分明なり。もししからば、本文は十界互具と見えたれども、実には二乗作仏無ければ、十界互具を許さざるか。その上、爾前の経は法華経をもって定むべし。既に「先より修習せるをば除く」等云々と云う。華厳は菩薩に向かって二乗作仏無しと云えること分明なり。方等・般若もまたもってかくのごとし。
 総じて、爾前の円に意得べき様二つ有り。一には、阿難結集の已前、仏は一音に必ず別・円二教の義を含ませ、一々の音に必ず四教・三教を含ませたまえるなり。故に、純円の円は爾前経には無きなり。故に、円といえども、今の法華経に対すれば別に摂むと云うなり。籤の十に「また一々の位に皆普賢・行布の二門有り。故に知んぬ、兼ねて円門を用いるも別に摂むることを」と釈するなり。この意にて爾前に得道無しと云うなり。二には、阿難結集の時、多羅葉に注し、一段は純別、一段は純円に書けるなり。方等・般若もかくのごとし。この時は、爾前の純円に書ける処はほぼ法華に似たり。「住の中には多く円融の相を明かす」等と釈するは、この意なり。天台智者大師はこの道理を得給いし故に、他師の華厳など総じて爾前の経を心得しにはたがい給えるなり。
 この二つの法門をばいかにとして天台大師は心得給いしぞとさぐれば、法華経の信解品等をもって、一々の文字は別・円の菩薩および四教・三教なりけりとは心得給いしなり。またこの智慧を得る