651ページ
の方便・無得道の禅なるを、真実常住の法と云うが故に、外道の常見なり。もし与えてこれを言わば、仏の方便・三蔵教の分斉なり。もし奪ってこれを言わば、ただ外道の邪法なり。与は当分の義、奪は法華の義なり。法華の奪の義をもっての故に、禅は天魔・外道の法と云うなり。
問う。禅を天魔の法と云う証拠、いかん。
答う。前々に申すがごとし。
(043)
立正観抄送状
文永12年(ʼ75)2月28日 54歳 最蓮房
今度の御使い、誠に御志のほど顕れ候い畢わんぬ。また種々の御志、たしかに給び候い畢わんぬ。
そもそも承り候、当世の天台宗等、「止観は法華経に勝れ、禅宗は止観に勝る」、また「観心の大教興る時は本迹の大教を捨つ」と云うこと。
まず、天台一宗において流々各別なりといえども、恵心・檀那の両流を出でず候なり。
恵心流の義に云わく、止観の一部は本迹二門に亘るなり。謂わく、止観の六に云わく「観は仏知に名づけ、止は仏見に名づく。念々の中において止観現前す」、乃至「三乗の近執を除く」文。弘決の五に云わく「十法は既にこれ法華の所乗なれば、この故に、還って法華の文を用いて歎ず。もし迹の説に約せば、即ち大通智勝仏の時を指してもって『積劫』となし、寂滅道場をば、もって『妙悟』と
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(042)立正観抄 | 文永11年(’74) | 53歳 | 最蓮房 |
(043)立正観抄送状 | 文永12年(’75)2月28日 | 54歳 | 最蓮房 |