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教・機・時・国相応の義は申すに及ばず、実教にも似ず権教にも似ざるなり。道理なり、道理なり。
「天台・伝教の所伝は、法華経は禅・真言より劣れり」と習うが故に、達磨の邪義、真言の妄語と打ち成って、権教にも似ず、実教にも似ず、二途に摂めざるなり。故に、大謗法罪顕れて、「止観は法華経に勝る」という邪義を申し出だして、失無き天台に失を懸けたてまつる。故に、高祖に背く不孝の者、法華経に背く大謗法罪の者と成るなり。
夫れ、天台の観法を尋ぬれば、大蘇道場において三昧開発せしより已来、「目を開いて妙法を思えば随縁真如なり。目を閉じて妙法を思えば不変真如なり。この両種の真如は、ただ一言の妙法に有り。我妙法を唱うる時、万法ここに達し、一代の修多羅一言に含まる。詮ずるところ、迹門を尋ぬれば迹広く、本門を尋ぬれば本高し。しかじ、己心の妙法を観ぜんには」と思しめされしなり。
当世の学者、この意を得ざるが故に、天台己証の妙法を習い失って、「止観は法華経に勝れ、禅宗は止観に勝れたり」と思って、法華経を捨てて止観に付き、止観を捨てて禅宗に付くなり。禅宗の一門云わく「松に藤懸かる。松枯れ藤枯れて後、いかん」「上らずして一枝」なんど云える天魔の語を深く信ずるが故なり。「修多羅の教主は松のごとく、その教法は藤のごとし。各々に諍論すといえども、仏も入滅して教法の威徳も無し。ここに知んぬ、修多羅の仏教は月を指す指なり。禅の一法のみ独り妙なり。これを観ずれば見性得達するなり」と云う大謗法の天魔の所為を信ずるが故なり。
しかれども、法華経の仏は、寿命無量・常住不滅の仏なり。禅宗は滅度の仏と見るが故に、外道の無の見なり。「この法は法位に住して、世間の相は常住なり」の金言に背く僻見なり。禅は、法華経
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(042)立正観抄 | 文永11年(’74) | 53歳 | 最蓮房 |