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答う。内証はしからざるなり。外用においてはこれを弘通したまわざるなり。いわゆる内証の辺をば秘して、外用には三観と号して一念三千の法門を示し現し給うなり。
問う。何が故ぞ、知りながら弘通し給わざるや。
答う。時至らざるが故に、付嘱にあらざるが故に、迹化なるが故なり。
問う。天台、この一言の妙法を証得し給える証拠これ有りや。
答う。このこと天台一家の秘事なり。世に流布せる学者、これを知らず。灌頂玄旨の血脈とて、天台大師自筆の血脈一紙これ有り。天台御入滅の後は、石塔の中にこれ有り。伝教大師御入唐の時、八舌の鑰をもってこれを開き、道𨗉和尚より伝受し給う血脈とは、これなり。この書に云わく「一言の妙旨、一教の玄義」文。伝教大師の註血脈に云わく「夫れ、一言の妙法とは、両眼を開いて五塵の境を見る時は応に随縁真如なるべし。五眼を閉じて無念に住する時は当に不変真如なるべし。故に、この一言を聞くに、万法ここに達し、一代の修多羅一言に含まる」文。この両大師の血脈のごとくんば、天台大師の血脈相承の最要の法は、妙法の一言なり。一心三観とは、詮ずるところ妙法を成就せんがための修行の方法なり。三観は因の義、妙法は果の義なり。ただし、因のところに果有り、果のところに因有り、因果俱時の妙法を観ずるが故に、かくのごとき功能を得るなり。
ここに知んぬ、「天台至極の法門は、法華本迹未分のところに無念の止観を立てて、最秘の大法とす」といえる邪義、大いなる僻見なりということを。四依弘経の大薩埵は、既に仏経に依って諸論を造る。天台、何ぞ仏説に背いて無念の止観を立てたまわんや。もし「この止観、法華経に依らず」といわば、
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(042)立正観抄 | 文永11年(’74) | 53歳 | 最蓮房 |