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く習って、失無き天台に失を懸けたてまつる。あに大罪にあらずや。
今問う。天台の本意はいかなる法ぞや。
碩学等云わく、一心三観これなりと。
今云わく、一実円満の一心三観とは、誠に甚深なるに似たれども、なおもって行者修行の方法なり。三観とは因の義なるが故なり。慈覚大師、釈して云わく「三観とは、法体を得せしめんがための修観なり」云々。伝教大師云わく「今、止観修行とは、法華の妙果を成ぜんがためなり」云々。故に知んぬ、一心三観とは、果地・果徳の法門を成ぜんがための能観の心なることを。いかにいわんや、三観とは言説に出でたる法なるが故に、如来の果地・果徳の妙法に対すれば、可思議の三観なり。
問う。一心三観に勝れたる法とは、いかなる法ぞや。
答う。このこと誠に一大事の法門なり。「ただ仏と仏とのみ」の境界なるが故に、我らが言説に出だすべからず。故に、これを申すべからざるなり。ここをもって経文には、「我が法は妙にして思い難し」「言をもって宣ぶべからず」云々。妙覚果満の仏すら、なお不可説・不思議の法と説き給う。いかにいわんや、等覚の菩薩已下、乃至凡夫をや。
問う。名字を聞かずんば、何をもって勝れたる法有りと知ることを得んや。
答う。天台己証の法とはこれなり。当世の学者は、血脈相承を習い失うが故に、これを知らざるなり。相構えて相構えて、秘すべく秘すべき法門なり。しかりといえども、汝が志神妙なれば、その名を出だすなり。一言の法これなり。伝教大師の「一心三観を一言に伝う」と書き給うこれなり。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(042)立正観抄 | 文永11年(’74) | 53歳 | 最蓮房 |