645ページ
また一つの問答に云わく、所被の機、上機なるが故に勝ると云わば、実を捨てて権を取れ。天台云わく「教いよいよ権なれば位いよいよ高し」と釈し給うが故なり。所被の機、下劣なるが故に劣ると云わば、権を捨てて実を取れ。天台、釈して云わく「教いよいよ実なれば位いよいよ下し」と云うが故なり。しかれども、止観は上機のためにこれを説き、法華は下機のためにこれを説くと云わば、止観は法華に劣れるが故に機を高く説くと聞こえたり。実にさもや有るらん。
天台大師は霊山の聴衆として如来出世の本懐を宣べたもうといえども、時至らざるが故に、妙法の名字を替えて止観と号す。迹化の衆なるが故に、本化の付嘱を弘め給わず。正直の妙法を止観と説きまぎらかすが故に、ありのままの妙法ならざれば、帯権の法に似たり。故に知んぬ、天台弘通の所化の機は、在世帯権の円機のごとし。本化弘通の所化の機は、法華本門の直機なり。
「止観・法華は全く体同じ」と云わん、なお人師の釈をもって仏説に同ずる失、はなはだ重きなり。いかにいわんや、「止観は法華経に勝る」という邪義を申し出だすは、ただこれ本化の弘経と迹化の弘通と、像法と末法と、迹門の付嘱と本門の付嘱とを、末法の行者に云い顕させんがための仏天の御計らいなり。ここに知んぬ、当世天台宗の中にこの義を云う人は、祖師・天台のためには不知恩の人なり。あにその過を免れんや。
夫れ、天台大師は、昔霊山に在っては薬王と名づけ、今漢土に在っては天台と名づけ、日本国の中にては伝教と名づく。三世の弘通はともに妙法と名づく。かくのごとく法華経を弘通し給う人は、在世の釈尊より外は、三国にその名を聞かず。有り難く御坐します大師を、その末学、その教釈を悪し
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(042)立正観抄 | 文永11年(’74) | 53歳 | 最蓮房 |