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立正観抄
文永11年(ʼ74) 53歳 最蓮房
法華止観同異決 日蓮撰す。
当世、天台の教法を習学するの輩、多く観心修行を貴んで法華本迹二門を捨つと見えたり。
今問う。そもそも観心修行と言うは、天台大師の摩訶止観の「己心の中に行ずるところの法門を説く」の一心三観・一念三千の観に依るか、はたまた世に流布せる達磨の禅観に依るか。
もし達磨の禅観に依らば、教禅ならば未顕真実・妄語・方便の禅観なり。法華経の妙禅の時には「正直に方便を捨つ」と捨てらるる禅なり。祖師・達磨禅ならば教外別伝の天魔の禅なり。共にこれ無得道、妄語の禅なり。よってこれを用いるべからず。
もし天台の止観の一心三観に依らば、止観一部の廃立、天台の本意に背くべからざるなり。もし止観修行の観心に依らば、法華経に背くべからず。止観一部は法華経に依って建立す。一心三観の修行は、妙法の不可得なるを感得せんがためなり。故に知んぬ、法華経を捨ててただ観のみを取って正となすの輩は、大謗法・大邪見・天魔の所為なることを。その故は、天台の一心三観とは、法華経に依って三昧開発するを、己心証得の止観と云うが故なり。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(042)立正観抄 | 文永11年(’74) | 53歳 | 最蓮房 |