6ページ
の位の内、第五十人は初随喜の位の先の名字即と申す釈なり。
その上、「五種法師にも、受持・読・誦・書写の四人は自行の人、大経の九人の先の四人は解無き者なり。解説は化他、後の五人は解有る人」と証し給えり。疏記の第十に五種法師を釈するには、「あるいは全くいまだ品に入らず」、また云わく「一向いまだ凡位に入らず」文。文の心は、五種法師は観行五品と釈すれども、また五品已前の名字即の位とも釈するなり。これらの釈のごとくんば、義理を知らざる名字即の凡夫が随喜等の功徳も、経文の「一偈一句、一念随喜の者」「五十展転」等の内に入るかと覚え候。
いかにいわんや、この経を信ぜざる謗法の者の罪業は譬喩品に委しくとかれたり。持経者を謗ずる罪は法師品にとかれたり。この経を信ずる者の功徳は分別功徳品・随喜功徳品に説けり。謗法と申すは違背の義なり。随喜と申すは随順の義なり。させる義理を知らざれども一念も貴き由申すは、違背・随順の中にはいずれにか取られ候べき。また末代無智の者のわずかの供養・随喜の功徳は経文には載せられざるか、いかん。
その上、天台・妙楽の釈の心は、他の人師ありて法華経の「乃至、童子の戯れに」「一偈一句」「五十展転」の者を爾前の諸経のごとく上聖の行儀と釈せられたるをば、謗法の者と定め給えり。しかるに、我が釈を作る時、機を高く取って末代造悪の凡夫を迷わし給わんは、自語相違にあらずや。故に、妙楽大師、「五十展転」の人を釈して云わく「恐らくは、人謬って解せる者、初心の功徳の大なることを測らずして、功を上位に推り、この初心を蔑る。故に、今、彼の行浅く功深きことを示して、も
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(001)唱法華題目抄 | 文応元年(’60)5月28日 | 39歳 |