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叶わず。心あらん人は能く能く思い定むべきなり。もし仏意に相叶わぬ筆ならば、信ずともあに成仏すべきや。またこれをもって国土を祈らんに、当に不祥を起こさざるべきや。
また云わく「震旦の人師等、諍って醍醐を盗む」云々。文の意は、天台大師等、真言教の醍醐を盗んで法華経の醍醐と名づけ給えることは、この筆最第一の勝事なり。法華経を醍醐と名づけ給えることは、天台大師、涅槃経の文を勘えて、一切経の中には法華経を醍醐と名づくと判じ給えり。真言教の天竺より唐土へ渡ることは、天台出世の以後二百余年なり。されば、二百余年の後に渡るべき真言の醍醐を盗みて、法華経の醍醐と名づけ給いけるか。このこと、不審なり、不審なり。真言いまだ渡らざる以前の二百余年の人々を盗人とかき給えること、証拠いずれぞや。弘法大師の筆をや信ずべき、涅槃経に法華経を醍醐と説けるをや信ずべき。もし天台大師盗人ならば、涅槃経の文をばいかんがこころうべき。さては、涅槃経の文真実にして弘法の筆邪義ならば、邪義の教えを信ぜん人々は、いかん。ただ、弘法大師の筆と仏の説法と勘え合わせて、正義を信じ侍るべしと申すばかりなり。
疑って云わく、大日経は大日如来の説法なり。もししからば、釈尊の説法をもって大日如来の教法を打ちたること、すべて道理に相叶わず、いかん。
答えて云わく、大日如来は、いかなる人を父母として、いかなる国に出でて、大日経を説き給いけるやらん。もし父母なくして出世し給うならば、釈尊入滅以後、慈尊出世以前、五十六億七千万歳が中間に仏出でて説法すべしということ、いかなる経文ぞや。もし証拠なくんば誰人か信ずべきや。かかる僻事をのみ構え申すあいだ、邪教とは申すなり。その迷謬尽くしがたし。わずか一・二を出
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(035)祈禱抄 | 文永9年(’72) | 51歳 |