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ぬこと侍らば、上は釈迦・諸仏をあなずり奉り、下は九界をたぼらかす失あり。行者は必ず不実なりとも、智慧はおろかなりとも、身は不浄なりとも、戒徳は備えずとも、南無妙法蓮華経と申さば必ず守護し給うべし。
袋きたなしとて金を捨つることなかれ。伊蘭をにくまば栴檀あるべからず。谷の池を不浄なりと嫌わば蓮を取らざるべし。行者を嫌い給わば誓いを破り給いなん。正像既に過ぎぬれば、持戒は市の中の虎のごとし。智者は麟角よりも希ならん。月を待つまでは灯を憑むべし。宝珠のなき処には金銀も宝なり。白烏の恩をば黒烏に報ずべし。聖僧の恩をば凡僧に報ずべし。とくとく利生をさずけ給えと強盛に申すならば、いかでか祈りのかなわざるべき。
問うて云わく、上にかかせ給う道理・文証を拝見するに、まことに日月の天におわしますならば、大地に草木のおうるならば、昼夜の国土にあるならば、大地だにも反覆せずば、大海のしおだにもみちひるならば、法華経を信ぜん人、現世のいのり、後生の善処は疑いなかるべし。しかりといえども、この二十余年が間の天台真言等の名匠、多く大事のいのりをなすに、はかばかしくいみじきいのりありともみえず。なお外典の者どもよりもつたなきようにうちおぼえて見ゆるなり。恐らくは、経文のそらごとなるか、行者のおこないのおろかなるか、時機のかなわざるかとうたがわれて、後生もいかんとおぼう。
それはさておきぬ。御房は山僧の御弟子とうけたまわる。父の罪は子にかかり、師の罪は弟子にかかるとうけたまわる。叡山の僧徒の、園城・山門の堂塔・仏像・経巻数千万をやきはらわせ給うが、
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(035)祈禱抄 | 文永9年(’72) | 51歳 |