らず。また「その中の衆生は、ことごとくこれ吾が子なり」とも名乗らせ給わず。釈迦仏独り主師親の三義をかね給えり。しかれども、四十余年の間は提婆達多を罵り給い、諸の声聞をそしり、菩薩の果分の法門を惜しみ給いしかば、仏なれども、よりよりは「天魔破旬ばしの我らをなやますか」の疑い、人にはいわざれども心の中には思いしなり。この心は、四十余年より法華経の始まるまで失せず。
しかるを、霊山八年の間に宝塔虚空に現じ、二仏日月のごとく並び、諸仏大地に列なり、大山をあつめたるがごとく、地涌千界の菩薩虚空に星のごとく列なり給いて、諸仏の果分の功徳を吐き給いしかば、宝蔵をかたぶけて貧人にあたうるがごとく、崑崙山のくずれたるににたりき。諸人、この玉をのみ拾うがごとく、この八箇年が間、珍しく貴きこと、心髄にもとおりしかば、諸の菩薩、身命も惜しまず、言をばくくまず誓いをなせしほどに、嘱累品にして、釈迦如来、宝塔を出でさせ給いてとびらを押したて給いしかば、諸仏は国々へ返り給いき。諸の菩薩等も、諸仏に随い奉りて返らせ給いぬ。
ようやく心ぼそくなりしほどに、「却って後三月あって、当に般涅槃すべし」と唱えさせ給いしことこそ、心ぼそく、耳おどろかしかりしかば、諸の菩薩・二乗・人天等、ことごとく法華経を聴聞して、仏の恩徳心肝にそみて、身命をも法華経の御ために投げて仏に見せまいらせんと思いしに、仏の仰せのごとくもし涅槃せさせ給わば、いかにあさましからんと胸さわぎしてありしほどに、仏の御年満八十と申せし二月十五日の寅卯時、東天竺舎衛国俱尸那城跋提河の辺にして仏御入滅なるべき由の御音、上は有頂、横には三千大千界までひびきたりしこそ、目もくれ、心もきえはてぬれ。
五天竺、十六の大国、五百の中国、十千の小国、無量の粟散国等の衆生、一人も衣食を調えず、上
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(035)祈禱抄 | 文永9年(’72) | 51歳 |