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命を愛せず、ただ無上道を惜しむのみ」「身命を惜しまず」「当に広くこの経を説くべし」等とこそ誓い給いしか。
その上、慈父の釈迦仏、悲母の多宝仏、慈悲の父母等、同じく助証の十方の諸仏、一座に列ならせ給いて、月と月とを集めたるがごとく、日と日とを並べたるがごとくましましし時、「諸の大衆に告ぐ。我滅度して後、誰か能くこの経を護持し読誦せん。今、仏前において、自ら誓言を説け」と、三度まで諫めさせ給いしに、八方の四百万億那由他の国土に充満せさせ給いし諸大菩薩、身を曲げ低頭合掌し、ともに同時に声をあげて「世尊の勅のごとく、当につぶさに奉行すべし」と、三度まで声を惜しまずよばわりしかば、いかでか法華経の行者にはかわらせ給わざるべき。
はんよきといいしもの、けいかに頭を取らせ、きさつといいしもの、徐君が塚に刀をかけし、約束を違えじがためなり。これらは、震旦辺土のえびすのごとくなるものどもだにも、友の約束に、命をも亡ぼし、身に代えて思う刀をも塚に懸くるぞかし。まして、諸大菩薩は、本より「大悲もて代わって苦を受けん」の誓い深し。仏の御諫めなくとも、いかでか法華経の行者を捨て給うべき。その上、我が成仏の経たる上、仏慇懃に諫め給いしかば、仏前の御誓い丁寧なり。行者を助けたもうこと疑うべからず。
仏は、人天の主、一切衆生の父母なり。しかも開導の師なり。父母なれども賤しき父母は主君の義をかねず。主君なれども父母ならざればおそろしき辺もあり。父母・主君なれども師匠なることはなし。諸仏は、また世尊にてましませば、主君にてはましませども、娑婆世界に出でさせ給わざれば師匠にあ
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(035)祈禱抄 | 文永9年(’72) | 51歳 |