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日は一月、十二月は一年にして五百歳なり。されば、人間の二千二百余年は四王天の四十四日なり。されば、日月ならびに毘沙門天王は、仏におくれたてまつりて四十四日、いまだ二月にたらず。帝釈・梵天なんどは、仏におくれ奉って一月一時にもすぎず。わずかの間に、いかでか、仏前の御誓いならびに自身成仏の御経の恩をばわすれて、法華経の行者をば捨てさせ給うべきなんど思いつらぬれば、たのもしきことなり。されば、法華経の行者の祈る祈りは、響きの音に応ずるがごとし。影の体にそえるがごとし。すめる水に月のうつるがごとし。方諸の水をまねくがごとし。磁石の鉄をすうがごとし。琥珀の塵をとるがごとし。あきらかなる鏡の物の色をうかぶるがごとし。
世間の法には、我がおもわざることも、父母・主君・師匠・妻子・おろかならぬ友なんどの申すことは、恥ある者は、意にはあわざれども、名利をもうしない、寿ともなることも侍るぞかし。いかにいわんや、我が心からおこりぬることは、父母・主君・師匠なんどの制止を加うれども、なすことあり。されば、はんよきといいし賢人は、我が頸を切ってだにこそ、けいかと申せし人には与えき。季札と申せし人は、約束の剣を徐君が塚の上に懸けたりき。
しかるに、霊山会上にして即身成仏せし竜女は、小乗経には五障の雲厚く三従のきずな強しと嫌われ、四十余年の諸大乗経には、あるいは歴劫修行にたえずと捨てられ、あるいは「初発心の時、便ち正覚を成ず」の言も有名無実なりしかば、女人成仏もゆるさざりしに、たとい人間・天上の女人なりとも成仏の道には望みなかりしに、竜畜下賤の身たるに、女人とだに生まれ、年さえいまだたけず、わずかに八歳なりき。かたがた思いもよらざりしに、文殊の教化によりて、海中にして法師・提婆の
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(035)祈禱抄 | 文永9年(’72) | 51歳 |