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恭敬し、また美膳・無量の宝衣および諸の臥具、種々の湯薬をもってし、牛頭栴檀および諸の珍宝、もって塔廟を起て、宝衣を地に布き、かくのごとき等の事、もって供養すること恒沙劫においてすとも、また報ずること能わじ」等云々。
この経文は、四大声聞、譬喩品を聴聞して仏になるべき由を心得て、仏と法華経の恩の報じがたきことを説けり。されば、二乗の御ためには、この経を行ずる者をば、父母よりも、愛子よりも、両眼よりも、身命よりも、大事にこそおぼしめすらめ。舎利弗・目連等の諸大声聞は、一代聖教いずれも讃歎せん行者をすておぼすことはあるべからずとは思えども、爾前の諸経はすこしうらみおぼすこともあるらん。「仏法の中において、すでに敗種のごとし」なんどしたたかにいましめられ給いし故なり。今の華光如来・名相如来・普明如来なんどならせ給いたることは、おもわざる外の幸いなり。例せば、崑崙山のくずれて宝の山に入りたる心地してこそおわしぬらめ。されば、領解の文に云わく「無上の宝珠は、求めざるに自ずから得たり」等云々。されば、一切の二乗界、法華経の行者をまぼり給わんことは疑いあるべからず。
あやしの畜生なんども、恩をば報ずることに候ぞかし。かりと申す鳥あり。必ず母の死なんとする時、孝をなす。狐は塚を跡にせず。畜生すら、なおかくのごとし。いわんや人類をや。されば、王寿といいし者、道を行きしにうえつかれたりしに、路の辺に梅の樹あり。その実多し。寿、とりて食してうえやみぬ。「我この梅の実を食して気力をます。その恩を報ぜずんばあるべからず」と申して、衣をぬぎて梅に懸けてさりぬ。王尹といいし者は、道を行くに水に渇しぬ。河をすぐるに水を飲
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(035)祈禱抄 | 文永9年(’72) | 51歳 |