り、巧みの心出現して仏教を盗み取り自宗に入れて邪見もっともふかし。附仏教・学仏法成等これなり。外典もまたまたかくのごとし。漢土に仏法いまだわたらざりし時の儒家・道家は、ゆうゆうとして嬰児のごとくはかなかりしが、後漢已後に釈教わたりて対論の後、釈教漸く流布するほどに、釈教の僧侶、破戒のゆえに、あるいは還俗して家にかえり、あるいは俗に心をあわせ、儒道の内に釈教を盗み入れたり。止観の第五に云わく「今の世に多く悪魔の比丘有って、戒を退き家に還り、駆策を懼畏して、さらに道士に越済し、また名利を邀めて荘・老を誇談し、仏法の義をもって偸んで邪典に安き、高きを押して下きに就け、尊きを摧いて卑しきに入れ、概して平等ならしむ」云々。弘に云わく「比丘の身と作って仏法を破滅す。もしは『戒を退き家に還る』は衛元嵩等がごとし。即ち在家の身をもって仏法を破壊す。この人、正教を偸窃して邪典に助添す。『高きを押す』等とは、道士の心をもって二教の概となし、邪正をして等しからしむ。義としてこの理無し。かつて仏法に入って正を偸んで邪を助け、八万・十二の高きを押して五千・二篇の下きに就け、もって彼の典の邪鄙の教えを釈するを『尊きを摧いて卑しきに入る』と名づく」等云々。この釈を見るべし。次上の心なり。
仏教またかくのごとし。後漢の永平に漢土に仏法わたりて、邪典やぶれて内典立つ。内典に南三北七の異執おこりて蘭菊なりしかども、陳・隋の智者大師に打ちやぶられて、仏法二たび群類をすくう。
その後、法相宗・真言宗、天竺よりわたり、華厳宗また出来せり。これらの宗々の中に、法相宗は一向天台宗に敵を成す宗、法門水火なり。しかれども、玄奘三蔵・慈恩大師、委細に天台の御釈を見けるほどに、自宗の邪見ひるがえるかのゆえに、自宗をばすてねども、その心天台に帰伏すと
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(005)開目抄 | 文永9年(’72)2月 | 51歳 | 門下一同 |