514ページ
にも、信じて次の生の仏前を期すべきなり。
譬えば、高き岸の下に人ありて登ることあたわざらんに、また岸の上に人ありて縄をおろして、「この縄にとりつかば、我岸の上に引き登さん」と云わんに、引く人の力を疑い、縄の弱からんことをあやぶみて、手を納めてこれをとらざらんがごとし。いかでか岸の上に登ることをうべき。もし、その詞に随いて手をのべこれをとらえば、即ち登ることをうべし。「唯我一人、能為救護(ただ我一人のみ、能く救護をなす)」の仏の御力を疑い、「以信得入」の法華経の教えの縄をあやぶみて、「決定無有疑」の妙法を唱え奉らざらんは、力及ばず、菩提の岸に登ること難かるべし。不信の者は「堕在泥梨」の根元なり。されば、経には「疑いを生じて信ぜずんば、則ち当に悪道に堕つべし」と説かれたり。受けがたき人身をうけ、値いがたき仏法にあいて、いかでか虚しくて候べきぞ。同じく信を取るならば、また大小・権実のある中に、諸仏出世の本意、衆生成仏の直道の一乗をこそ信ずべけれ。
持つところの御経の諸経に勝れてましませば、能く持つ人もまた諸人にまされり。ここをもって経に云わく「能くこの経を持つ者は、一切衆生の中において、またこれ第一なり」と説き給えり。大聖の金言疑いなし。しかるに、人、この理をしらず見ずして名聞・狐疑・偏執を致せるは、堕獄の基なり。ただ願わくは、経を持ち、名を十方の仏陀の願海に流し、誉れを三世の菩薩の慈天に施すべし。しかれば、法華経を持ち奉る人は、天竜八部・諸大菩薩をもって我が眷属とする者なり。しかのみならず、因身の肉団に果満の仏眼を備え、有為の凡膚に無為の聖衣を着ぬれば、三途に恐れなく、八難に憚りなし。七方便の山の頂に登りて九法界の雲を払い、無垢地の園に花開け、法性の空に月明
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(030)持妙法華問答抄 | 弘長3年(’63) | 42歳 |