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うことあるべからざるか。謗法とは、法に背くということなり。法に背くと申すは、小乗は小乗経に背き、大乗は大乗経に背く。法に背かば、あに謗法とならざらん。謗法とならば、なんぞ苦果をまねかざらん。この道理にそむく。これひとつ。
大般若経に云わく「般若を謗ずる者は、十方の大阿鼻地獄に堕つべし」。法華経に云わく「もし人信ぜずして乃至その人は命終して、阿鼻獄に入らん」。涅槃経に云わく「世に難治の病三つあり。一には四重、二には五逆、三には謗大乗なり」。これらの経文あにむなしかるべき。これらは証文なり。
されば、無垢論師・大慢婆羅門・熙連禅師・嵩霊法師等は、正法を謗じて、現身に大阿鼻地獄に堕ち、舌口中に爛れたり。これは現証なり。
天親菩薩は小乗の論を作って諸大乗経をはしき。後に無著菩薩に対して、この罪を懺悔せんがために舌を切らんとくい給いき。謗法もし罪とならずば、いかんが千部の論師、懺悔をいたすべき。闡提とは天竺の語、ここには不信と翻ず。不信とは、「一切衆生悉有仏性を信ぜざるは、闡提の人」と見えたり。不信とは謗法の者なり。恒河の七種の衆生の第一は、一闡提謗法、常没の者なり。第二は、五逆謗法、常没等の者なり。あに謗法をおそれざらん。
答えて云わく、謗法とは、ただ由なく仏法を謗ずるを謗法というか。我が宗をたてんがために余法を謗ずるは、謗法にあらざるか。摂論の四意趣の中の衆生意楽意趣とは、たとい人ありて一生の間一善をも修せず、ただ悪を作る者あり、しかるに、小縁にあいて、いずれの善にてもあれ一善を修せんと申す。これは随喜・讃歎すべし。また善人あり、一生の間ただ一善を修す。しかるを、他の善へう
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(029)顕謗法抄 | 弘長2年(’62) | 41歳 |