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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

 そもそも、「大通結縁の者は、謗法の故に六道に回るも、また名字即の浅位の者なり。また『一念随喜』『五十展転』の者もまた名字・観行即の位」と申す釈は、いずれの処に候やらん。委しく承り候わばや。また、義理をも知らざる者の、わずかに法華経を信じ侍るが、悪知識の教えによって法華経を捨てて権教に移るより外の世間の悪業に引かれては、悪道に堕つべからざる由申さるるは、証拠あるか。また、無智の者の念仏申して往生するといずれに見えてあるやらんと申し給うこそ、よに事あたらしく侍れ。双観経等の浄土の三部経、善導和尚等の経釈に明らかに見えて侍らん上は、なにとか疑い給うべき。
 答えて曰わく、大通結縁の者を、退大取小の謗法、名字即の者と申すは、私の義にあらず。天台大師、文句の第三の巻に云わく「法を聞いていまだ度せずして世々に相値って今に声聞地に住する者有り。即ち彼の時の結縁の衆なり」と釈し給いて侍るを、妙楽大師、疏記の第三に重ねてこの釈の心を述べ給いて云わく「ただ、いまだ品に入らざるを、ともに結縁と名づくるが故に」文。文の心は、大通結縁の者は名字即の者となり。また、天台大師、玄義の第六に大通結縁の者を釈して云わく「もしは信、もしは謗。因って倒れ、因って起く。喜根をば謗ずといえども、後に要ず度を得るがごとし」文。文の心は、大通結縁の者の三千塵点を経るは謗法の者なり、例せば、勝意比丘が喜根菩薩を謗ぜしがごとしと釈す。「『五十展転』の人は五品の初めの初随喜の位」と申す釈もあり。また「初随喜の位の先の名字即」と申す釈もあり。疏記の第十に云わく「初めに法会にして聞く。容にこれ初品なるべし。第五十人は必ず随喜の位の初めに在る人なり」文。文の心は、初会聞法の人は必ず初随喜