494ページ
「正覚を取らじ」「成仏してより已来、およそ十劫を歴」等の文は「未顕真実」と承伏せさせ給うか。もししからば、四十余年の経々にして法蔵比丘の阿弥陀仏になり給わずば、法蔵比丘の成仏すでに妄語なり。もし成仏妄語ならば、いずれの仏か行者を迎え給うべきや。
また、かれ、この難を通じて云わく、「四十余年が間は成仏はなし。阿弥陀仏は今の成仏にはあらず、過去の成仏なり」等云々。
今難じて云わく、今日の四十余年の経々にして実の凡夫の成仏を許されずば、過去遠々劫の四十余年の権経にても成仏叶いがたきか。三世の諸仏の説法の儀式、皆同じきが故なり。
あるいは云わく「『疾く無上菩提を成ずることを得ず』ととかるれば、四十余年の経々にては疾くこそ仏にはならねども、遅く劫を経てはなるか」。
難じて云わく、次下の大荘厳菩薩等の領解に云わく「不可思議無量無辺阿僧祇劫を過ぐるとも、終に無上菩提を成ずることを得ず」等と云々。この文のごとくならば、劫を経ても、爾前の経ばかりにては成仏はかたきか。
あるいは云う。華厳宗の料簡に云わく「四十余年の内には、華厳経ばかりは入るべからず。華厳経にすでに往生・成仏これあり。なんぞ華厳経を行じて往生・成仏をとげざらん」。
答えて云わく、「四十余年の内に華厳経入るべからず」とは、華厳宗の人師の義なり。無量義経には、正しく四十余年の内に「華厳海空」と名目を呼び出だして、四十余年の内にかずえ入れられたり。人師を本とせば、仏に背くになりぬ。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(029)顕謗法抄 | 弘長2年(’62) | 41歳 |