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同三年己未、大飢饉。正元元年己未、大疫病。同二年庚申、四季に亘って大疫已まず、万民既に大半に超えて死を招き了わんぬ。しかるあいだ、国主これに驚き、内外典に仰せ付けて種々の御祈禱有り。しかりといえども、一分の験も無く、還って飢疫等を増長す。
日蓮、世間の体を見て、ほぼ一切経を勘うるに、御祈請験無く還って凶悪を増長するの由、道理・文証これを得了わんぬ。終に止むことなく、勘文一通を造作し、その名を立正安国論と号す。文応元年庚申七月十六日辰時、宿屋入道に付けて故最明寺入道殿に奏進し了わんぬ。これひとえに国土の恩を報ぜんがためなり。
その勘文の意は、日本国天神七代・地神五代・百王百代の人王第三十代欽明天皇の御宇に始めて百済国より仏法この国に渡りしより、桓武天皇の御宇に至るまで、その中間五十余代、二百六十余年なり。その間、一切経ならびに六宗これ有りといえども、天台・真言の二宗いまだこれ有らず。桓武の御宇に山階寺の行表僧正の御弟子に最澄という小僧有り〈後に伝教大師と号す〉。已前に渡るところの六宗ならびに禅宗これを極むといえども、いまだ我が意に叶わず。聖武天皇の御宇に大唐の鑑真和尚渡すところの天台の章疏、四十余年を経てより已後、始めて最澄これを披見し、ほぼ仏法の玄旨を覚り了わんぬ。最澄、天長地久のために延暦四年、叡山を建立す。桓武皇帝これを崇めて、天子本命の道場と号し、六宗の御帰依を捨てて、一向に天台円宗に帰伏し給う。
同延暦十三年に長岡京より遷って平安城を建つ。同延暦二十一年正月十九日、高雄寺において南都七大寺の六宗の碩学、勤操・玄耀等の十四人を召し合わせ、決断して勝負を談ず。六宗の明匠、一問
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(004)安国論御勘由来 | 文永5年(’68)4月5日 | 47歳 | 法鑑房 |