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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

の所有の法乃至皆この経において宣示顕説す」已上。これらの現文は、釈迦如来の内証は皆この経に尽くしたもう。その上、多宝ならびに十方の諸仏、来集の庭において、釈迦如来の已今当の語を証し、法華経のごとき経無しと定め了わんぬ。しかるに、多宝・諸仏、本土に還って後に、ただ釈迦一仏のみ異変を存して、還って涅槃経を説いて法華経を卑しめば、誰人かこれを信ぜん。深くこの義を存せよ。したがって涅槃経の第九を見るに、法華経を流通して説いて云わく「この経、世に出ずるは、彼の菓実の利益するところ多く一切を安楽ならしむるがごとく、能く衆生をして仏性を見せしむ。法華の中の八千の声聞の記別を授かることを得て大菓実を成ずるがごとし。秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」。
 この文のごとくんば、法華経もし邪見ならば、涅槃経もあに邪見にあらずや。法華経は大収、涅槃経は捃拾なりと見え了わんぬ。涅槃経は自ら法華経より劣るの由を称す。法華経の当説の文、あえて相違なし。ただし、迦葉の領解ならびに第十四の文は、法華経を下す文にあらず。迦葉、自身ならびに所化の衆、今始めて法華経に説くところの常住仏性・久遠実成を覚るが故に、我が身を指して、これより已前は邪見なりと云う。法華経より已前の無量義経に嫌うところの諸経を、涅槃経に重ねてこれを挙げて嫌うなり。法華経を嫌うにはあらざるなり。また涅槃論に至っては、これらの論は書き付くるがごとく、天親菩薩の造、菩提流支の訳なり。法華論もまた、天親菩薩の造、菩提流支の訳なり。経文に違することこれ多し。涅槃論もまた本経に違す。当に知るべし、訳者の誤りなり。信用に及ばず。