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答えて曰わく、法華経の第二に云わく「もしこの経法を信受することあらば、この人はすでにかつて、過去の仏を見たてまつりて、恭敬・供養し、またこの法を聞けり」。法師品に云わく「また如来滅度するの後に、もし人有って妙法華経の乃至一偈一句を聞いて、一念も随喜せば乃至当に知るべし、この諸人等は、すでにかつて十万億の仏を供養せしなり」。流通たる涅槃経に云わく「もし衆生有って、熙連河沙等の諸仏において菩提心を発さば、乃ち能くこの悪世において、かくのごとき経典を受持して誹謗を生ぜず。善男子よ。もし能く一恒河沙等の諸仏世尊において菩提心を発すことあらば、しかる後に乃ち能く悪世の中において、この法を謗ぜず、この典を愛敬せん」〈已上、経文〉。
これらの文のごとくんば、たとい先に解心無くとも、この法華経を聞いて謗ぜざるは、大善の所生なり。夫れ、三悪の生を受くるは大地の微塵より多く、人間の生を受くるは爪上の土より少なし。乃至、四十余年の諸経に値うは大地の微塵よりも多く、法華・涅槃に値うは爪上の土より少なし。上に挙ぐるところの涅槃経の三十三の文を見るべし。たとい一字一句なりといえども、この経を信ずるは宿縁多幸なり。
問うて云わく、たとい法華経を信ずといえども悪縁に随わば、何ぞ三悪道に堕ちざらんや。
答えて曰わく、解心無き者、権教の悪知識に遇って実教を退せば、悪師を信ずる失によって、必ず三悪道に堕つべきなり。彼の不軽軽毀の衆は権人なり。大通結縁の者の三千塵点を歴しは、法華経を退して権教に遷りしが故なり。法華経を信ずるの輩は、法華経の信を捨てて権人に随わんより外は、世間の悪業においては法華の功徳に及ばざるが故に、三悪道に堕つべからざるなり。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(023)守護国家論 | 正元元年(’59) | 38歳 |