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答えて云わく、人をもって知識となすは常の習いなり。しかりといえども、末代において真の知識無ければ、法をもって知識となすに多くの証有り。摩訶止観に云わく「あるいは知識に従い、あるいは経巻に従い、上に説くところの一実の菩提を聞く」已上。この文の意は、経巻をもって善知識となす。
法華経に云わく「もし法華経の閻浮提に行わるるを受持することあらば、応にこの念を作すべし、『皆これ普賢の威神の力なり』と」已上。この文の意は、末代の凡夫、法華経を信ずるは普賢の善知識の力なり。
また云わく「もしこの法華経を受持・読誦し、正憶念し、修習し書写することあらば、当に知るべし、この人は則ち釈迦牟尼仏を見る。仏の口よりこの経典を聞くがごとし。当に知るべし、この人は釈迦牟尼仏を供養す」已上。この文を見るに、法華経は釈迦牟尼仏なり。法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏入滅を取り、この経を信ずる者の前には滅後たりといえども仏の在世なり。
また云わく「もし我成仏して、滅度するの後、十方の国土において、法華経を説く処有らば、我が塔廟はこの経を聴かんがための故に、その前に涌現して、証明をなさん」已上。この文の意は、我ら法華の名号を唱うれば、多宝如来は本願の故に必ず来りたもう。
また云わく「諸仏の十方の世界に在して説法したもうを、ことごとく一処に還し集めたもう」已上。釈迦・多宝・十方の諸仏・普賢菩薩等は、我らが善知識なり。もしこの義に依らば、我らはまた宿善、善財・常啼・班足等にも勝れたり。彼は権経の知識に値い、我らは実経の知識に値えばなり。彼は権
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(023)守護国家論 | 正元元年(’59) | 38歳 |