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二には難易の義なり。初めに勝劣の義とは、念仏はこれ勝、余行はこれ劣なり。次に難易の義とは、念仏は修し易く、諸行は修し難し」と。また次下に法華・真言等の失を定めて云わく「故に知んぬ、諸行は機にあらず、時を失う。念仏往生のみ機に当たり、時を得たり」。また次下に法華・真言等の雑行の門を閉じて云わく「随他の前にはしばらく定散の門を開くといえども、随自の後には還って定散の門を閉ず。一たび開いてより以後永く閉じざるは、ただこれ念仏の一門のみなり」已上。
最後の本懐に云わく「夫れ、速やかに生死を離れんと欲せば、二種の勝法の中に、しばらく聖道門を閣いて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲せば、正・雑の二行の中に、しばらく諸の雑行を抛って、選んで応に正行に帰すべし」已上。
門弟、この書を伝えて日本六十余州に充満するが故に、門人、世間の無智の者に語って云わく「上人は智慧第一の身としてこの書を造り、真実の義を定め、法華・真言の門を閉じて後に開く文無く、抛って後に還って取る文無し」等と立つるあいだ、世間の道俗一同に頭を傾け、その義を訪ぬる者には仮字をもって選択の意を宣べ、あるいは法然上人の物語を書くあいだ、法華・真言において難を付けて、あるいは去年の暦、祖父の履に譬え、あるいは法華経を読むは管絃より劣るとす。
かくのごとき悪書、国中に充満するが故に、法華・真言等国に在りといえども聴聞せんことを楽わず、たまたま行ずる人有りといえども尊重を生ぜず。一向念仏の者は、法華等の結縁を作すをば往生の障りと成ると云うが故に、捨離の意を生ず。この故に、諸天、妙法を聞くことを得ず、法味を嘗めざれば、威光勢力有ることなし。四天王ならびに眷属はこの国を捨て、日本国守護の善神も捨離し已
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(023)守護国家論 | 正元元年(’59) | 38歳 |