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性の二乗・無性闡提の成・不成をもって論の権実を定むるなり。しかるに、大論は、竜樹菩薩の造、羅什三蔵の訳なり。般若経に依る時は二乗作仏を許さず、法華経に依れば二乗作仏を許す。十住毘婆沙論もまた竜樹菩薩の造、羅什三蔵の訳なり。この論にもまた二乗作仏を許さず。これをもって知んぬ、法華已前の諸大乗経の意を申べたる論なることを。
問うて云わく、十住毘婆沙論のいずれの処に、二乗作仏を許さざる文、出でたるや。
答えて云わく、十住毘婆沙論〈竜樹菩薩造、羅什訳〉の第五に云わく「もし声聞地および辟支仏地に堕ちなば、これを菩薩の死と名づく。則ち一切の利を失う。もし地獄に堕つとも、かくのごとき畏れを生ぜじ。もし二乗地に堕ちなば、則ち大怖畏となす。地獄の中に堕つとも、畢竟して仏に至ることを得。もし二乗地に堕ちなば、畢竟して仏道を遮る」已上。この文、二乗作仏を許さず。あたかも浄名等の「仏法の中において、もって敗種のごとし」の文のごとし。
問うて云わく、大論は般若経に依って二乗作仏を許さず法華経に依って二乗作仏を許す文、いかん。
答えて曰わく、大論〈竜樹菩薩造、羅什三蔵訳〉の一百に云わく「問うて曰わく、さらにいずれの法か甚深にして般若に勝れたるもの有って、般若をもって阿難に嘱累し、余経をもって菩薩に嘱累するや。答えて曰わく、般若波羅蜜は秘密の法にあらず。しかるに、法華等の諸経は阿羅漢の受決作仏を説く。ゆえに大菩薩能く受けて持用す。譬えば、大薬師の能く毒をもって薬となすがごとし」。また九十三に云わく「阿羅漢の成仏は、論義者の知るところにあらず。ただ仏のみ能く了したもう」已上。これらの文をもってこれを思うに、論師の権実はあたかも仏の権実のごとし。しかるを、権経に依る人師、
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(023)守護国家論 | 正元元年(’59) | 38歳 |