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えども、応に命を断ずべからず」。
法華経に云わく「もし人信ぜずして、この経を毀謗せば、即ち一切世間の仏種を断ぜん乃至その人は命終して、阿鼻獄に入らん」已上。
夫れ、経文は顕然なり。私の詞何ぞ加えん。およそ法華経のごとくんば、大乗経典を謗ずる者は、無量の五逆に勝れるが故に、阿鼻大城に堕ちて永く出ずる期無けん。涅槃経のごとくんば、たとい五逆の供を許すとも、謗法の施を許さず。蟻子を殺す者は、必ず三悪道に落つ。謗法を禁ずる者は、不退の位に登る。いわゆる、覚徳とはこれ迦葉仏なり、有徳とは則ち釈迦文なり。
法華・涅槃の経教は一代五時の肝心なり。その禁め実に重し。誰か帰仰せざらんや。しかるに、謗法の族、正道を忘るるの人、あまつさえ法然の選択に依って、いよいよ愚癡の盲瞽を増す。ここをもって、あるいは彼の遺体を忍んで木画の像に露し、あるいはその妄説を信じて莠言の模を彫り、これを海内に弘め、これを郭外に翫ぶ。仰ぐところは則ちその家風、施すところは則ちその門弟なり。しかるあいだ、あるいは釈迦の手の指を切って弥陀の印相に結び、あるいは東方如来の鴈宇を改めて西土教主の鵝王を居え、あるいは四百余回の如法経を止めて西方浄土の三部経と成し、あるいは天台大師の講を停めて善導の講となす。かくのごとき群類、それ誠に尽くし難し。これ破仏にあらずや。これ破法にあらずや。これ破僧にあらずや。この邪義は、則ち選択に依るなり。
ああ悲しいかな、如来の誠諦の禁言に背くこと。哀れなるかな、愚侶の迷惑の麤語に随うこと。早く天下の静謐を思わば、すべからく国中の謗法を断つべし。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(002)立正安国論 | 文応元年(’60)7月16日 | 39歳 | 北条時頼 |