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なり。
仏の入滅は既に二千余年を経たり。しかりといえども、法華経を信ずる者の許に仏の音声を留めて、時々、刻々、念々に、我死せざる由を聞かしむ。心に一念三千を観ぜざれども、あまねく十方法界を照らすものなり。これらの徳はひとえに法華経を行ずる者に備わるなり。この故に、法華経を信ずる者は、たとい臨終の時、心に仏を念ぜず、口に経を誦せず、道場に入らざれども、心無くして法界を照らし、音無くして一切経を誦し、巻軸を取らずして法華経八巻を拳る徳これ有り。これあに、権教の念仏者の臨終正念を期して十念の念仏を唱えんと欲する者に百千万倍勝るるの易行にあらずや。
故に、天台大師、文句の十に云わく「すべて諸教に勝るるが故に、随喜功徳品と言う」。妙楽大師は、法華経は諸経より浅機を取れども、人師この義を弁えざるが故に法華経の機を深く取ることを破して云わく「恐らくは、人謬って解せる者、初心の功徳の大なることを測らずして、功を上位に推り、この初心を蔑る。故に、今、彼の行浅く功深きことを示して、もって経力を顕す」已上。「もって経力を顕す」の釈の意趣は、法華経は観経等の権経に勝れたるが故に、行浅く功深し。浅機を摂むるが故なり。もし恵心先徳、法華経をもって念仏より難行と定めて、愚者・頑魯の者を摂めずと云わば、恐らくは逆路伽耶陀の罪を招かざらんや。また「恐らくは、人謬って解す」の内に入らざらんや。
総じて天台・妙楽の三大部の本末の意には、法華経は諸経に漏れたる愚者・悪人・女人・常没闡提等を摂めたもう。他師は、仏意を覚らざるが故に、法華経を諸経に同じ、あるいは地・住の機を取り、あるいは凡夫においても別時意趣の義を存す。これらの邪義を破して、人天・四悪をもって法華経の
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(023)守護国家論 | 正元元年(’59) | 38歳 |