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のごとし。汝、往生要集を便りとして師の謗法の失を救わんと欲すれども、あえてその義類に似ず。義類の同じきをもって一処に聚むとならば、何らの義類同じきや。華厳経のごときは、二乗界を隔つるが故に十界互具無し。方等・般若の諸経は、また十界互具を許さず。観経等の往生極楽もまた、方便の往生なり。成仏・往生ともに法華経のごとき往生にあらず、皆、別時意趣の往生・成仏なり。
その上、源信僧都の意は、四威儀に行じ易きが故に念仏をもって易行と云い、四威儀に行じ難きが故に法華をもって難行と称せば、天台・妙楽の釈を破する人なり。所以は、妙楽大師は末代の鈍者・無智の者等の法華経を行ずるに、普賢菩薩ならびに多宝・十方の諸仏を見奉るを易行と定めて云わく「散心に法華を誦し、禅三昧に入らず、坐立行に一心に法華の文字を念ず」已上。この釈の意趣は末代の愚者を摂めんがためなり。「散心」とは定心に対する語なり。「法華を誦す」とは、八巻・一巻・一字・一句・一偈・題目、一心一念随喜の者、五十展転等なり。「坐立行」とは四威儀を嫌わざるなり。「一心」とは定の一心にあらず、理の一心にあらず、散心の中の一心なり。「法華の文字を念ず」とは、この経は諸経の文字に似ず、一字を誦すといえども、八万宝蔵の文字を含み、一切諸仏の功徳を納むるなり。
天台大師、玄義の八に云わく「手に巻を執らざれども常にこの経を読み、口に言声無けれどもあまねく衆典を誦し、仏説法せざれどもつねに梵音を聞き、心に思惟せざれどもあまねく法界を照らす」已上。この文の意は、手に法華経一部八巻を執らざれども、この経を信ずる人は昼夜十二時の持経者なり。口に読経の声を出ださざれども、法華経を信ずる者は、日々、時々、念々に一切経を読む者
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(023)守護国家論 | 正元元年(’59) | 38歳 |