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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

くに、留難無きが故なり」。仏自ら難易勝劣の二道を分かちたまえり。仏より外、等覚より已下末代の凡師に至るまで、自義をもって難易の二道を分かちてこの義に背く者は、外道・魔王の説に同じきか。したがって、四依の大士たる竜樹菩薩の十住毘婆沙論には、法華より已前において難易の二道を分かち、あえて四十余年より已後の経において難行の義を存せず。その上、もし修し易きをもって易行と定めば、法華経の五十展転の行は称名念仏より行じ易きこと百千万億倍なり。もしまた勝をもって易行と定めば、分別功徳品に爾前四十余年の八十万億劫の間の檀・戒・忍・進・念仏三昧等の先の五波羅蜜の功徳をもって法華経の一念信解の功徳に比するに、一念信解の功徳は念仏三昧等の先の五波羅蜜に勝るること百千万億倍なり。難易勝劣と謂い、行浅功深と謂い、観経等の念仏三昧を法華経に比するに、難行の中の極難行、勝劣の中の極劣なり。
 その上、悪人・愚人を扶くること、また教の浅深に依る。阿含十二年の戒門には、現身に四重・五逆の者に得道を許さず。華厳・方等・般若・双観経等の諸経は、阿含経より教え深き故に勧門の時は重罪の者を摂むといえども、なお戒門の日は七逆の者に現身の受戒を許さず。しかりといえども、決定性の二乗、無性の闡提においては、戒・勧共にこれを許さず。法華・涅槃等には、ただ五逆・七逆・謗法の者を摂むるのみにあらず、また定性・無性をも摂む。なかんずく、末法においては、常没の闡提これ多し。あに観経等の四十余年の諸経においてこれを扶くべけんや。無性の常没、決定性の二乗は、ただ法華・涅槃等に限れり。四十余年の経に依る人師は、彼の経の機と取る。この人はいまだ教相を知らざるが故なり。