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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

存せり。これに就いて、また唐土の人師は、過去の権教の宿習の故に権の経論心に叶うあいだ、実の経論を用いず。あるいは少し自義に違う文有れば、理を曲げて会通を構え、もって自身の義に叶わしむ。たとい後に道理と念うといえども、あるいは名利により、あるいは檀那の帰依によって、権宗を捨てて実宗に入らず。世間の道俗、また無智の故に理非を弁えず、ただ人に依って法に依らず。たとい悪法たりといえども、多人の邪義に随って一人の実説に依らず。
 しかるに、衆生の機、多くは流転に随う。たとい出離を求むとも、また多分は権経に依る。ただ恨むらくは悪業の身、善に付け悪に付け生死を離れ難きのみ。しかりといえども、今の世の一切の凡夫、たとい今生を損ずといえども、上に出だすところの涅槃経第九の文に依って、しばらく法華・涅槃を信ぜよ。その故は、世間の浅きことすら、展転多き時は、虚は多く実は少なし。いわんや仏法の深義においてをや。如来の滅後二千余年の間、仏経に邪義を副え来れり。万に一も正義無きか。一代の聖教、多分は誤り有るか。ゆえに、心地観経の法爾無漏種子、正法華経の嘱累の経末、婆沙論の一十六字、摂論の識を八・九に分かつ、法華論と妙法華経との相違、涅槃論の「法華は煩悩の汚すところなり」の文、法相宗の定性・無性の不成仏、摂論宗の法華経の「一たび南無と称う」の別時意趣、これらは皆、訳者・人師の誤りなり。この外に、また四十余年の経々において多くの誤り有るか。たとい法華・涅槃において誤り有るも誤り無きも、四十余年の諸経を捨てて法華・涅槃に随うべし。その証、上に出だし了わんぬ。いわんや、誤り有る諸経において信心を致す者、生死を離るべしや。