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説の中に入るなり。
問うて云わく、法華経と涅槃経と、いずれか勝れたるや。
答えて云わく、法華経勝れたるなり。
問うて曰わく、何をもってこれを知るや。
答えて曰わく、涅槃経に自ら「法華の中のごとし」等と説き「さらに所作無し」と云い、法華経に当説を指して難信難解と云わざるが故なり。
問うて云わく、涅槃経の文を見るに、涅槃経已前をば「皆邪見なり」と云う、いかん。
答えて云わく、法華経は如来の出世の本懐なるが故に「今、すでに満足しぬ」「今正しくこれその時なり」「しかるに、善男子よ、我は実に成仏してより已来」等と説く。ただし、諸経の勝劣においては、仏自ら「我が説くところの経典は無量千万億なり」と挙げ了わって「已に説き、今説き、当に説くべし」等と説く時、多宝仏、地より涌現して「皆これ真実なり」と定め、分身の諸仏は舌相を梵天に付けたもう。かくのごとく諸経と法華経との勝劣を定め了わんぬ。この外は釈迦如来一仏の説くところなれば、先後の諸経に対して法華経の勝劣を論ずべきにあらず。故に、涅槃経に諸経を嫌う中に法華経を入れず。法華経は諸経に勝るる由、これを顕すが故なり。ただし、「邪見」の文に至っては、法華経を覚知せざる一類の人、涅槃経を聞いて悟りを得るが故に、迦葉童子自身ならびに所引を指して、涅槃経より已前を「邪見」等と云うなり。経の勝劣を論ずるにはあらず。
第三に、大小乗を定むることを明かさば、
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(023)守護国家論 | 正元元年(’59) | 38歳 |