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回鶻国重ねて地を奪う。およそ兵乱は秦項の代に同じく、災火は邑里の際に起こる。いかにいわんや、武宗大いに仏法を破し、多く寺塔を滅す。乱を撥むること能わずして、ついにもって事有り」已上取意。
これをもってこれを惟うに、法然は後鳥羽院の御宇、建仁年中の者なり。彼の院の御事既に眼前に在り。しからば則ち、大唐に例を残し、吾が朝に証を顕す。汝疑うことなかれ、汝怪しむことなかれ。ただすべからく凶を捨てて善に帰し、源を塞ぎ根を截つべし。
客、いささか和らいで曰わく、いまだ淵底を究めざるに、しばしばその趣を知る。ただし、華洛より柳営に至るまで、釈門に枢楗在り、仏家に棟梁在り。しかるに、いまだ勘状を進らせず、上奏に及ばず。汝、賤しき身をもってたやすく莠言を吐く。その義余り有り、その理謂れ無し。
主人曰わく、予、少量たりといえども、忝くも大乗を学す。蒼蠅、驥尾に附して万里を渡り、碧蘿、松頭に懸かって千尋を延ぶ。弟子、一仏の子と生まれて、諸経の王に事う。何ぞ仏法の衰微を見て心情の哀惜を起こさざらんや。
その上、涅槃経に云わく「もし善比丘あって、法を壊る者を見て、置いて、呵責し駆遣し挙処せずんば、当に知るべし、この人は仏法の中の怨なり。もし能く駆遣し呵責し挙処せば、これ我が弟子、真の声聞なり」。余、善比丘の身ならずといえども、「仏法の中の怨」の責めを遁れんがために、ただ大綱を撮ってほぼ一端を示すのみ。
その上、去ぬる元仁年中に延暦・興福の両寺より度々奏聞を経、勅宣・御教書を申し下して法然の選択の印板を大講堂に取り上げ、三世の仏恩を報ぜんがためにこれを焼失せしむ。法然の墓所におい
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(002)立正安国論 | 文応元年(’60)7月16日 | 39歳 | 北条時頼 |